Thanks You! Harvey!

サンフランシスコのカストロ・ストリートでは、LGBTのために活動したハーヴェイ・ミルクの功績に感謝してThanks!Harveyというようなポスターを掲げているお店もあります。ハーヴェイ・ミルクはLGBTの殉職者となっています。ミルクと同じようにサンフランシスコの市会議員を務めた議員は「ミルクが当選したことは大きな一歩で、同性愛者も政治に参加することができるということを示した」とハーヴェイ・ミルクの功績を話をしている通り、ハーヴェイ・ミルクの果たした役割はかなり大きなものがあります。

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ハーヴェイ・ミルクの人生

50歳まで生きることはないだろう。と思っていた通り、48年間という人生で幕を閉じることになったハーヴェイ・ミルクはどのような人生を歩いたのでしょうか。ハーヴェイ・ミルクが亡くなった後でも、大きな影響を与えたハーヴェイ・ミルク。自身がもし暗殺されることがあったら、公開してほしいと録音していたテープにはもし暗殺されたらと伝えたいことが残されています。

そのテープの中には、5人でも10人でもそして100人でも立ち上がって欲しい。ゲイの医者がカミングアウトするのが見たい。ゲイの弁護士、ゲイの建築家、ゲイの官僚もカミングアウトして欲しい。立ち上がって公言して欲しい。想像以上に偏見をなくすことに役立つはずで、それが私たちが権利を獲得する唯一の道だと語っています。ハーヴェイ・ミルクの生きた1970年代は、男性同士が手をつないでいるだけで警察に逮捕された時代です。そんな時代からごくごく普通の人生を勝ち取るために、まさに命を賭けて戦ったハーヴェイ・ミルクはLGBTの殉教者となりました。

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サンフランシスコに住む前

1930年5月22日にハーヴェイ・ミルクはニューヨーク州ウッドミアで誕生しました。そしてニューヨーク州立大学アルバニー校を1951年に卒業して卒業後は、アメリカ海軍に入隊しました。海軍に入隊していたときには、後に選挙活動中にハーヴェイ・ミルクが語っていますが、軍隊の中で数多く行われていた同性愛者粛清の犠牲となっていました。

海軍を名誉除隊した後しばらくの間、テキサス州のダラスで暮らしていましたがハーヴェイ・ミルクはユダヤ人ということもあって、仕事を見つけることは難しくまた仕事が見つかった時にも長く続けることは難しかったため、ニューヨーク市に転居してウォール街で働きました。そして、ショービズの世界にも関わりがありプロデューサーとして『ジーザス・クライスト・スーパースター』や『レニー』といったミュージカルといった多くの演劇にもプロデューサーとして携わりました。

ゲイの人たちが多く住むサンフランシスコに1972年に当時のパートナーのスコット・スミスに移り住みます。ミルクがスコットと一緒にサンフランシスコに移り住んだ時には、まさに一文無しでのサンフランシスコへの移住でした。当時のゲイ・コミュニティがニューヨークでは、ボヘミアン文化の一部だったのに比べて、サンフランシスコのゲイ・コミュニティはゲイたちが自分たちでアパートを改築して整えることで、カストロ地区を一つの観光地区に作り上げてそしてそれを市役所にも働きかけるといった、ゲイたち自身が発信する場所でもあったからです。

ヒッピーの美学に憧れていたハーッヴェイ・ミルクは一文無しでサンフランシスコに到着しましたが、元ウォールストリートのブローカーというキャリアを持っているので、金融業での仕事を見つけることはできましたが、そうではなくゲイが集まるゲイ・ヴィレッジのカストロ地区に「カストロ・カメラ」をオープンさせています。その理由は、ちょうどカストロ地区にゲイ・コミュニティが形作られている最中ということもあって、その場所に自分の活躍する場所を見つけたからだと思われます。

そして人懐っこくて、話上手のミルクのお店にはヒッピーやゲイといった人たちが集まるようになり、ハーヴェイ・ミルクはカストロ地区の共同体のリーダーとして頭角を現して、地元のお店の人たちと「カストロ・ヴァレー協会」を設立して、市役所などと交渉する際には近隣の事業者の代表となり「カストロ通りの市長」といわれるようになりました。

そして1973年・1975年とサンフランシスコ市議会に立候補していますが、2度の落選を経験していますが選挙に出馬するたびに、支援者を増やしていきました。ミルクを支持する人が増えたことから、当時のサンフランシスコ市長のジョージ・マスコーニ市長は1976年にハーヴェイ・ミルクに許可書嘆願委員会に指名されて、1977年に3度目の立候補で、第5区で見事初当選を飾りました。

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